2004年11月16日

近況報告

勝手気ままにつらつらと書いてきましたが、
本当の所、私は今どんな状況なの?という自分の確認も含め、
少し書いてみたいと思います。

現在未活動。
最近は内部からの連絡もあまりこなくなって
毎日割に自由です。
先日スーパーのエレベーターで地域の婦人部長と遭遇。
しかし完璧にそっぽを向いて無視され、
ちょっと世間話でもしてみようかなと思ったけれど
向こうから拒絶してきたのでちょっとホッ。
内部の人にはものすごくあたりがいい人なのに、
所詮完璧に去ってしまった者に対しては
こういう扱いしかできない人なのね。

抗不安薬の服薬は、もうかれこれ2年以上なし。
服薬していても1年弱でした。
今は精神的に落ち着いたというか、肝が座った!?
ということでこのブログを運営しています。

アダルトチルドレン問題は、ほとんど収束しています。
自助グループへの参加、関連した本を片っ端から読んだり、
チャイルドセラピーという、自分のチャイルドに会うワークショップに参加したり、
とにかく出来ることをなんでもやってきました。
自分のチャイルドに出会うと、今までどれだけ自分を出してこれなかったか
手に取るように理解できるようになり、
それでだいぶ、自分の治療の方向性が見えてきました。
私が劇的に回復したのは、チャイルドの欲求や考えを意識して
毎日を過ごすようになったためです。

今は私自身、とても冷静に物事を判断できるようになりました。
これからもこの調子で書いていこうと思います。

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2004年11月15日

学会員の裏表

gizmoさんのブログで、
「学会員、偽りの暖かさ」という記事を読ませて頂きました。

http://home.newsch.net/gizmo/

私は学会員の恩着せがましいところが好きではありません。
民音チケットのノルマを達成する為に無理やりチケット購入をお願いし、
その見返りに遠方の会合に行くときに車を出す羽目になったり、
新聞啓蒙が出来ない時にノルマの数に達するために、
近くの人どうしで数をあげあったりすることが日常です。

学会の組織を大きくするために
悩んでいる人を見つけて布教するのは絶対だ。
そういう対象の人にはものすごくあたりがソフトだ。
けれど、入会したらほったらかしにされることも多々あるし、
悩みなどをどうにかしようとして入会して、
これから日々の暗黙の了解みたいな人間の裏表に
ついていかなければならないのかと思うとこちらも胸が痛い。

しかしながら、悲しい性です。
何かをしてあげて見返りが戻ってこないと
やってられないような寂しい組織。
団結が美学で見返りを求めたとしても、
仲間を無条件で守るとか、祈るとか、助けるとか、
そういうことが出来る人ってあまりいない。

日蓮大聖人の大慈悲に包まれているであろう学会に、
慈悲を持って活動してる人っていないのですか?

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2004年11月14日

宗教脱会者のために自助グループ紹介

宗教カルトなどからの脱会者のために特別に設置されたミーティングがあります。

ここには、学会被害者だけではなく、
様々なカルトの被害者が集まって、
「言いっぱなし、聞きっぱなし」の法則にのっとって
自分の心に詰まった、誰にも言えない、理解されないことを、
宗教被害者どうし語っています。

「脱会者のためのグループ」とYahoo検索すると出てくるのですが、
もし詳細を知りたいのであれば、私にメールを下さい。
私が参加した時の状況しかお話できませんが、
何かしらのお役に立てると思います。

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2004年11月13日

共依存

前に共依存のお話をしましたが、
すごく大切なことなので、もう一度お話したいと思います。

共依存の定義とは、
<<他人が自分の存在を証明してくれるものとしてあるような
依存的な人間関係>>

いまや貧乏でも病人でもないのですが、
昔は、そういった問題を抱えた人の集まるのが学会でした。
とにかく頼れるものが欲しい。
病人が医者を欲したり、
無職の人が仕事を欲したり、
そういうのと同じです。
「祈れば必ずかなう」と言われて、
学会にも、心の拠り所を求めました。
お互いに依存しながら、自分には価値があると感じながら、
学会はどんどん大きくなってきたのです。

私が恐ろしいなと思うのは、
宗教が必要のない人にも、共依存のコントロールがかかることです。
必要がないという以前に、
勝手にマインドコントロールの支配下に入ってしまう、
そういう人がいます。
それが、自分の意思で学会に入っていない二世以降です。
共依存の関係の真ん中に生まれた子供です。

私は、共依存である場所とそうでない所では、
共依存でいることの方が大変だと思います。
依存する為には多大な労力がかかり、
常識的にしてはいけないことも許容しなくてはなりません。

(以前例を出しましたが・・・
お酒を飲んで妻に暴力を振るう夫は、お酒を飲むことで、
妻に自分の面倒をみてもらいたがっているのかもしれないし、
妻は酒を飲んだ夫の面倒をみることによって、
自分の生きがいを見いだしているのかもしれない)

しかし、その共依存が素晴しいものだと勘違いしたら?
上に出した例は、逆の側面から見ると、
暴力を振るっている夫がいつか更生すると信じ、
妻は健気に見守り続けている、とも言えます。

ここで学会お得意の「困った人を幸せにしたい」の登場です。
人助けが美学の学会ですから、
どんどん美しい話に仕立て上げます。
それを見てきた子供たちは、
美しい側面ばかりを見て、物事の本質を見ないまま
学会は正しいことをしているところだと勘違いしてしまいます。
共依存することが自然なのです。

共依存が自然なんて、おかしくないですか?
このまま創大卒の官僚とか大臣とかが、
社会問題を美化するようなことがあったら最悪です。
是非社会の要人には、常識人であって欲しいです。

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2004年11月12日

プライバシー

学会では何かあると必ず
「何でも話せる先輩はいる?」と聞かれる。

学会の中で信頼を寄せて何でも話せる人は皆無に近い。
信頼して話したはずなのに、
次の日には他の人もみんな話した内容を知っていたりする。
こういうことがあるから、組織はイヤだ。

しかも最近、会員は物凄く事務的になってきた。
私が小さい頃は、もっと内部の人間関係は暖かかったように思う。
(親が多忙な為)こっちの家にご飯がなかったら
あっちの家に食べに行ったり、
泊まらせてもらったり、
家族ぐるみの付き合いをしていた。

けれど最近は社会全体がドライになってきたのもあって、
組織の中もかなりドライだ。
みんなが自分のプライバシーを守りながら活動している。
でも、自分のプライバシーは守りたいくせに、
夜遅い時間とか、自分の都合の良い勝手な時間に
部員の所へ押しかけたり、電話をしたりする。

ちなみに私は非常識な時間にかかってきた電話には出ない。
家族とかよく話している親友ならまだしも、
学会員には常識をわかってもらう必要があるので、
必ず昼間に対応することにしている。

それに、男子部は日付が変わっても活動している。
あれこれをしていたら○時になってしまい、
からくり時計からどのメロディーが流れてきた、とか、
前にコメントにも書いたが、
身を投げ打って先生の為に活動し、
血尿が出たら、それが立派な勲章なのだそうだ。
こういう活動の場になっている地区の拠点や
部員の家には多大な迷惑がかかることになる。
でも大概は貸さないとは言わない。
自分の家を会場として提供する事で、
功徳がもらえると信じているから。

すごい共依存だ。
プライバシーでさえ、飲み込んでしまう。

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2004年11月11日

祈ること

祈ることについてコメントを頂いたので、
それについて私の意見を書きたいと思います。

私は「曼荼羅に向かって祈ること」について、
もしそれで自分の心が落ち着いたり、
考えがまとまったりするのであれば、
それは無理にやめなくてもよいと思います。

だから、もし何かにすがりつきたくて経をとなえるのも、
自分の心が平静で、穏やかになるためにするのであれば
それも全然アリだと思います。

問題は、「祈りと学会組織の関係」です。

自分のために祈るのは、学会内部では「勝手」です。
マインドコントロールにかかった人は、こういう祈り方をします。
必ず「○○という願いをかなえる為に功徳をもらいたいから、
この戦いを頑張る」とか、
「学会の実証を示すために○○という願いをかなえてください」という

何か学会の役に立つことと引き換えに
自分の願いをかなえてもらう祈りをすること。
この2つが完璧にセット扱いなのです。

ここで、矛盾です。
なぜついて行きたくもない組織に良い事をしないと、
自分の願いはかなえられないのか?
答えは簡単です。

それは、この組織は「商売」だからです。
商売を維持する為に、貢献してくれる人が必要なのです。
それをうまい具合にコントロールにかけて
「日蓮仏法を正しく信仰する唯一の団体」ともっともな事を掲げ、
貢献する事と、それで功徳をもらえることとセット販売したのです。

被害から回復する途中で、
祈ることが抜けない人もいるかと思います。
今までの祈り方と、これからの祈り方は違うのだと、
自分の中で定義づけていけばよいと思います。
祈ること=学会への貢献だと感じる人は、
これから少しづつ、コントロールから抜けていけばいい。
無理はしないで下さい。
一気に抜こうとすると、
また頭の整理がつかなくなってしまいます。

実際私は法華経を保ったままですので、
毎日、家族が無事に過ごせるように、仏壇に手を合わせます。
その時に死んだ祖父母のことを思い出したり、
今日は家族にこんなお土産を買ってこようかなとか、
こういう穏やかな心を本当の
「菩薩界」とか「仏界」とかいうものだと思います。

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2004年11月10日

生きる

私は一時、生きるということがどういうことだか忘れかけたことがありました。
心のなかで学会への不信度が100%になり、
福子(親が会員でいやおうなしに入会した人)として
人生の全てだった学会を投げ出そうとしたと同時に
自分というアイデンティティをなくし、
私は本当にこれからどうやって生きていってよいか
全くわからなくなったのです。

その時、私を救ってくれたのは「薬」でした。
薬といっても、麻薬とか違法の薬ではありません。
精神科や心療内科で処方される、「抗不安薬」です。
私は少しの間、心療内科に通っていましたが、
そこに通い始めるのにもかなりの勇気が必要でした。
そういう類の診療を受けるのは、精神病者だと思っていたからです。
私は精神病なんかじゃない、ただ悩んでいるだけなんだと、
心の中で拒否をし続けていました。
しかし、突き詰めて悩んだ時、からっぽで抜け殻の私は
「こんなに悩まないといけないなら死ぬ」と決意してしまったのです。
その時、自分の死の観念と初めて向き合いました。

仕事中でも無意識のうちに涙が出てくるので、
とうとう会社にも通えなくなってしまいました。
近所の道を歩いているとき、小さな子供がお母さんに手を引かれているのを見て、
私も悩みを相談できる親を持ちたかった、
もし相談できたなら、こんなに自分は腐ってなかっただろうと
ふと思いました。
母は会社に通えない私を世間体が悪いと思っていたので、
私が外に出るのを嫌っていました。
死ななければ家に閉じこもる、
死んでも私は学会員による友人葬(会員が経を読んで葬式をすること)。
どんな風に死んでも、どんな風に生きても、
どっちにしろ、学会の思うつぼ。
だったら、退転者と言われようが、反逆者と言われようが、
生きたほうがまだいい、と。
それから私は、自分が生きるためにどうしたら良いか考えました。
まずは心療内科。とにかく生きるためには必要だと判断。
そこで精神科の先生に話を聞いてもらい、
今の状態を診断して薬を処方してもらいました。
それに、通院してみると、患者さんはみんな本当に普通で、
一見、精神的に問題を抱えている人には見えないのです。
うじうじ考えるより、全くもって産むが易しでした。

その薬を飲み始めて、徐々に精神的な落ち着きを取り戻してきました。
落ち着いてくると、周囲のものが冷静に見え始めました。

好きな本を読む自分。
楽しいテレビ番組を見て笑う自分。
気に入っているCDを聞く自分。
そんなたわいもないことが、とても幸せに感じてきたのです。

今まで1000万票獲得の戦いとか、
折伏何世帯の戦いとか、
署名を何万人集める戦いとか、
それはとても大きな規模の目標や戦いを掲げ、
ずっと生きてきました。
そういうものに隠れていた、小さな幸せ。
いつもなら普通にやっていたことが、とても幸せに感じる。
これが世間一般の幸せなんだ、と思った時が
私が一般人としてのアイデンティティを持ち始めた瞬間でした。

ここに来てこのブログを読まれている皆様の中に
もしかしたら、自分の境遇に嫌気がさし、
死ぬことを考えている人がいらっしゃるかもしれません。

死ぬのは、絶対にやめてください。
一人で解決できないのであれば、私にメールを下さってもかまわないし、
心療内科へ行って、話を聞いてもらうこともできます。
話をすることによって気持ちに整理がつき、
物事を主観ではなく、客観的に考えることが出来るようになります。

それに、考えてみてください。
自分の最期の全てが学会に悩む自分だったなんて
悲しすぎませんか?
嫌気が差した学会の為に死んでいくなんて、
私だったら絶対に嫌です。
学会は数年前、
「21世紀になったら、精神病者が増える。
その人たちを助ける学会でありたい」と言いました。
しかし、いまやその学会自体が精神病者メーカーです。
本当に本末転倒、
自分のやっていることが、学会はわかっているのでしょうか。
私は学会なしでも普通に幸せになって、
そして、ちゃんと一般人として復活できたフロンティアとして、
そして学会被害者の味方になって
一生をかけてでもそのたくさんの人の心の病んだ部分を理解したい。
そう思うのです。

どうか、一人で悩まないで下さい。
仲間は潜在的にたくさんいます。
かつて一緒に戦っていた仲間の数人も、
今は組織についていません。
私と同じく、組織に嫌気がさした人たちです。

私はここに来てチャンスが訪れていると思います。
組織が未活動者になってしまった人に対して、
すこし監視を緩めている感じがします。
先日もお話しましたが、活動家が増えていないのです。
このままで行くとお布施もふえないので、
いつ発心するかわからない未活動家も
とにかく脱会しない様に多めに見ている感じがするのです。
私はそのチャンスを使って、本格的に
学会員との交流をやめます。
少年部の頃からの内部の友人などは、
私を察してあたらず触らずで付き合ってくれる人もいます。
しかし、誰か1人に話をすると四者筒抜け。
(四者とは壮年部、婦人部、男子部、女子部です)
勝手に話が流れていて、何でこの人が知ってるの?ということが
日常的にあるので、秘密は守られません。
恐ろしいほどの団結、連絡網です。

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2004年11月09日

有名人が創価学会に入会する理由

会員のおばさんがたの井戸端会議などで聞いた話。
有名人が創価学会に入会する理由は、
「仕事をもらうため」ということです。
入会した事で仕事面で恩恵を受けることができるのです。
例えば、H本M美さんとS田R恵さん。
この二人はかならずセットです。
だからどっちかが人気がなくなったとしても
また出てこれるからOK。
どんな人が入会しているかと研究していると、
テレビでの共演頻度が
また創価学会つながりであることが見えてきます。

あとは、全国1000万人いるという会員が、
CDが出るとか、ビデオが出るということを聞くと
会員のよしみで買ってあげてしまうことです。
有名=学会に貢献していると暗示がかかっているので、
どんどん応援してあげてしまいます。
この貢献していることを、学会の中では
「実証を示す」といいます。
毎日の中で、学会員は自分の組織を認めてもらう為、
いつも「非会員に認めてもらうこと」を
進んでやろうと思っています。
また創価学会が主催している
「民主音楽協会(民音)」の催しに出演できたり、
たくさんの人が見方になってくれるという意味で、
学会員になることはメリットになるのです。

しかし、一般市民には学会員ということを
有名人の方々はカミングアウトしていないようです。
というのは、自分が会員と知っていてもらいたいのは、
仕事を回してくれる業界関係者や、
応援してくれる会員の人だけでいいのですから。
芸能人は組織内の「芸術部」という所へ属すのですが、
著名人が本当に活動しているのかどうかは
一般会員からしてみたら見えない所なので謎です。

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2004年11月08日

鳥居の話

私が小学生の時、6年生の修学旅行と言えば日光でした。
日光といえば、東照宮。東照宮といえばお寺。
そう、お寺や神社に行ったら、してはいけない事があるのです。
それは「鳥居をくぐること」。
私は親から「してはいけないこと」として教えられていました。
「刷り込み」です。
鳥が卵から生まれたら初めに見たものを親と思う、アレと同じです。
こちらの有無は関係ないのです。理由など無く、
してはいけないこと=鳥居をくぐることです。

小学生には少年部という活動グループがあり、
その中ではコミュニティーが出来上がっています。
ですから、「みんなで」鳥居をくぐりません。
私は同じ学会員の友達3人と、鳥居をさけていました。
すると、学級担任が
「なんでくぐらないの?」と聞いてきました。
そりゃ、数人で同じ事をしているので不自然です。
なので、
「私達は自分の宗教関係で鳥居をくぐらないようにしている」と言うと、
担任は秩序を乱している私たちに対してたちまち怒り出し、
「自分の宗教が大事なら他の宗教も大切にしてやれ!」
と怒鳴ったのです。
今から考えてみればごもっともです。
私たちを見た他の生徒はどう思ったのでしょうね。
しかしながら、私たちには反論ができません。
それは、朝起きて周りにおはようと言う様に、
何かしてもらったらありがとうと言う様に、
私達は鳥居をくぐらないんです。反論のしようがありません。

ちなみに私は仏教を保ちながら、キリスト教の
「汝隣人を愛せ」などの言葉はとても好きです。

今は学会のイメージアップを考えて、地域の活動などだったら
お寺や神社のお祭りなどには積極的に参加してもOKと指導がありましたが、
その昔は、他宗教と関わりを持つことはタブーでした。
(今も深く関わる事は禁じられています、もちろん)

今でもそう信じている人がいるのなかぁ、と思うと
その信仰の深さに頭が下がると共に、
少し同情してしまいます。
ついこの間、京都の伏見稲荷神社で
今まで見た事もないような巨大な鳥居をくぐりましたが、
今のところ、罰はあたっておりません。。。
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2004年11月07日

引用の嵐

私はかれこれもう何年も、活動を完全にストップする前から、
同時中継に出席していません。
同時中継とは、本部の大きな会合を、
末端の会館に放送するシステムの事で、
おおむね3日間位は再放送されるので、
みんな自分の都合の良い時間に見に行きます。
池田先生のスピーチが動く画面で見れるので、
だいたいは都合をつけて行くことになります。

私がなぜ行かなかったかというと、

-何日かすると新聞に全文が掲載される。
-熱心な母が勝手に私へ内容を吹き込む。
-先生のスピーチが偉人の引用をしすぎのため、
これなら伝記や、その偉人本人の本を読んだ方がまだまし。

問題は3番目。
必ず「誰これという人がこう言った」で始まる。
そして引用をしまくり、
それをあたかも自分で行ったかのように摩り替える。
この人は自分の言葉で物を言えないものかと
スピーチを聞きながら何度も思ったことがある。
でも、自分の言葉で言ったところで、
それはカルト教団の長の言った言葉でしかない。
オウム麻原が「宙を浮ける」と言っているようなもの。
要は、「偉人の言葉を借りないと
皆に理解してもらえない、
理解される為のとっかかりにもされない」ということです。
実に悲しい、教団の長です。

小さな頃、よく「本を読め」と指導されたのですが、
それって、学会人としての処世術だったのですね。

posted by ありさ at 00:00 | TrackBack(0) | 格納 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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